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日本の歴史

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日本の歴史
旧石器時代– 紀元前14000年頃縄文時代前14000年頃 – 前10世紀弥生時代前4世紀 – 後3世紀中頃古墳時代3世紀中頃 – 7世紀頃飛鳥時代592年 – 710年奈良時代710年 – 794年平安時代794年 – 1185年 王朝国家10世紀初頭 – 12世紀後期 平氏政権1167年 – 1185年鎌倉時代1185年 – 1333年建武の新政1333年 – 1336年室町時代1336年 – 1573年 南北朝時代1336年 – 1392年 戦国時代1467年(1493年)– 1590年安土桃山時代1573年 – 1603年江戸時代1603年 – 1868年 鎖国1639年 – 1854年 幕末1853年 – 1868年明治時代1868年 – 1912年大正時代1912年 – 1926年昭和時代1926年 – 1989年 GHQ占領下1945年 – 1952年平成時代1989年 – 2019年令和時代2019年 –     
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日本の歴史(にほんのれきし)、日本史(にほんし)、または国史(こくし)とは、日本または日本列島における歴史のこと。本項では世界的観点を交え日本の歴史を概観する。

各時代の詳細は、各時代区分項目(各節の冒頭のリンク先)を参照されたい。

時代区分[編集]

日本の歴史における時代区分には様々なものがあり、定説と呼べるものはない。(原始・)古代中世近世近代(・現代)とする時代区分法が歴史研究では広く受け入れられている。この場合でも、各時代の画期をいつに置くかは論者によって大きく異なる。

古代の始期については古代国家の形成時期をめぐって見解が分かれており、3世紀説、5世紀説、7世紀説があり、研究者の間で七五三論争と呼ばれている。中世については、中世を通じての社会経済体制であった荘園公領制が時代の指標とされ、始期は11世紀後半〜12世紀の荘園公領制形成期に、終期は荘園公領制が消滅した16世紀後半の太閤検地にそれぞれ求められる。近世は、太閤検地前後に始まり、明治維新前後に終わるとされる。近代の始期は一般に幕末期〜明治維新期とされるが、18世紀前半の家内制手工業の勃興を近代の始まりとする考えもある。さらに、第二次世界大戦での敗戦をもって近代と現代を区分することもあるが、最近は日本史においても、近代と現代の境目は冷戦構造が崩壊して、バブル崩壊で右肩上がりの経済成長が終わった1990年前後に変更すべきという意見もある。(以上の詳細→古代中世近世近代現代

上記のような時代区分論は、発展段階史観の影響を少なからず受けており、歴史の重層性・連続性にあまり目を向けていないという限界が指摘されている。そのため、時代を区分する対象ではなく移行するものとして捉える’ 「時代移行論」を提唱する研究者も現れ始めている。

一般によく知られている時代区分は、主として政治センターの所在地に着目した時代区分である。この時代区分は明確な区分基準を持っている訳ではなく、歴史研究上の時代区分としては適当でない。単に便宜的に用いられているに過ぎない時代区分である。文献史料がなく考古史料が残る時代は、考古学上の時代区分に従い、旧石器時代縄文時代弥生時代古墳時代と区分する。文献史料がある程度残る時代以降は政治の中心地の所在地に従って、飛鳥時代明日香村)・奈良時代奈良市)・平安時代京都市)・鎌倉時代鎌倉市)・室町時代(京都市)・安土桃山時代安土町・京都市伏見区)・江戸時代東京都)と区分する。ただこれだけでは必ずしも十分でないため室町時代前期に南北朝時代、室町時代後期に戦国時代、江戸時代後期に幕末という区分を設けており、このうち南北朝時代と戦国時代は中国史の時代区分からの借用である。江戸時代の次は、天皇の在位期間(一世一元の制)に従って明治時代明治天皇)・大正時代大正天皇)・昭和時代昭和天皇)・平成時代明仁)・令和時代徳仁)と呼ばれている。これらのうち、明治維新から1947年(昭和22年)5月2日までの時代(明治時代・大正時代・戦前昭和時代)を「大日本帝国時代」と、政体(憲法)に因んで呼ぶ例もある[1]。また、北海道・北東北、南西諸島などの周縁部については、これらとは異なる時代区分が用いられている(詳細→日本史時代区分表)。

また、文化面に着目して、縄文文化・弥生文化・古墳文化・飛鳥文化白鳳文化天平文化弘仁貞観文化国風文化院政期文化鎌倉文化北山文化東山文化桃山文化元禄文化化政文化などが用いられる。

概説[編集]

旧石器時代[編集]

詳細は「日本列島の旧石器時代」を参照

約2万年前の氷河期最後の更新世後期の日本の高度地図  海面上の地域  植物の生息していない地域  海黒線は現代の海岸線を示す

日本列島において確認されている人類の歴史は、約10万年前までさかのぼる[2]。ただしこれはデニソワ人などの旧人の遺したものと考えられる[3]

現生人類の最初の到来は4~3.5万年前と考えられている。

古く北海道と九州方面は大陸と地続きでありナイフ形石器と呼ばれる石器が列島全域で広く使用された。このナイフ型石器は北海道では発掘されていない。 約2万年前にはシベリアから新たに細石刃と呼ばれる石器が主に東日本に広まった。しばらく東日本の細石刃文化と西日本のナイフ形石器文化が併存したが、ほどなく細石刃が西日本にも広まり、約1万5千年前ごろ、ナイフ型石器は急速に姿を消した。

新石器時代[編集]

約4~3万年前にかけて世界最古とされる磨製石器局部磨製石斧)が多数発見されており、すでに列島では独自の磨製石器の使用が見られる。 岩戸遺跡から約2万4千年前のものとみられるこけし型の岩偶が出土したことで、旧石器時代にも何らかの信仰があったことがうかがえる。

約1万2千年前頃、最終氷期が終わり急激な温暖化による海面上昇が始まると、日本列島はアジア大陸から分離した。これにより、人々の文化や生活に大きな変化が生じ、南西諸島を除いて、次の縄文時代へ移行していった。

旧石器時代人の遺伝子としてハプログループD1a2 (Y染色体)が想定されている[4]

縄文時代[編集]

良文貝塚詳細は「縄文時代」を参照

縄文時代(じょうもんじだい)は、年代でいうと今から約1万6,500年前(紀元前145世紀)から約3,000年前(紀元前10世紀)、地質年代では更新世末期から完新世にかけて日本列島で発展した時代であり、世界史では中石器時代ないし新石器時代に相当する時代である。旧石器時代と縄文時代の違いは、土器の出現や竪穴住居の普及、貝塚の形式などがあげられる。 草創期・早期・前期・中期・後期・晩期の6期に区分される。この頃の日本列島人は縄文土器を作り、早期以降定住化が進んで主に竪穴式住居に住んだ。縄文式土器については、青森県大平山元I遺跡にて約1万6500年前の世界最古と言われる土器が発見されている。弓矢を用いた狩猟貝塚に見られる漁撈植物の採集などで生活を営み、打製石器磨製石器骨角器などを用いた。

雑穀堅果などの栽培も行われたとする仮説も提示されており、野生のイヌビエから穀物のヒエへの栽培化のプロセスが追跡できるとする研究や、クリの選択が行われて栽培化の動向がうかがわれるとされる研究も公表されている。稲作については、約6000年前の岡山県朝寝鼻(あさねばな)貝塚から稲作を行っていた証拠が見つかり、縄文時代前期から稲作が行われていた。 日本書紀の記述によれば、日本国の建国はこの時代の終わりに行われたとされる。

縄文人の主要な遺伝子として、ハプログループD1a2 (Y染色体)ハプログループC1a1 (Y染色体)が想定されている[4]

弥生時代[編集]

吉野ヶ里遺跡北内郭の大型建物詳細は「弥生時代」を参照

紀元前10世紀頃から3世紀頃までは弥生時代と呼ばれる。時代区分名称は、この時期に特徴的に見られた弥生土器に由来する。 弥生時代の開始期に大陸からハプログループO1b2 (Y染色体)に属す弥生人が到達した[4]

稲作を中心とする農耕社会が成立し、北部九州から本州最北端以北を除く日本列島各地へ急速に広まった。農耕社会の成立によって地域集団が形成された。農耕社会の発展とともに地域集団は大型化していき、その中心部には環濠集落が営まれた。当時多く築造された墳丘墓は大型地域集団の首長墓と見られ、身分差が生じ始めていたことの現れだと考えられている。

当時の日本列島は中国から倭国と呼ばれた。大型地域集団の中には中国王朝と通交するものもあり中国から「国」と称された。紀元前後には100前後の「国」が中国と通交していたとされる。倭の奴国王は後漢へ通使し金印を授与された。大型地域集団は次第に政治的な結合を強めていき、倭国連合と呼びうる政治連合体を2世紀初頭頃に形成した。その盟主は倭国王と称し、最初期の倭国王に帥升がいる。しばらく倭国は政治的に安定していたが、2世紀後半に倭国大乱と呼ばれる内乱が生じ、その後邪馬台国卑弥呼が倭国王となった。卑弥呼はとの通交により倭国連合の安定を図った。

北海道・北東北地方においては水田耕作が受容されず続縄文時代に移行した。

弥生時代以降、ハプログループO2 (Y染色体)渡来人が到達したとされる[4]

古墳時代[編集]

詳細は「古墳時代」を参照

平出遺跡公園にある、復原された古墳時代(西暦600年)の住居。

3世紀中後半から7世紀頃までは古墳時代と呼ばれる。3世紀中頃に畿内に出現した前方後円墳とそれに伴う墓制が急速に列島各地に広まっており、このことは畿内(ヤマト)・北部九州筑紫)・北関東毛野)・山陽吉備)・山陰出雲)に並立していた地域政治集団が糾合してヤマト王権を形成したことを表していると考えられている。ただし、これは初期国家と呼べる段階にはなく、王権の連合(連合王権)と見るのが適切とされている。この王権が後に国家としての体制を整え、さらに大和朝廷と称される政権に発展するが、どの時期以降をもって朝廷と呼ぶべきかに関しては、なお議論がある。

4世紀後半からヤマト王権は、列島主要部の支配を固めるとともに武器・農具の原料である鉄資源を求めて朝鮮半島への進出を開始し、半島諸国の国際関係にも介入するようになったが、これを契機として朝鮮中国の技術と文物が倭国へ流入した。高句麗とも戦争を繰り返した。(倭・高句麗戦争

5世紀に入るとヤマト王権は本拠を河内平野へ移し、朝貢することで朝鮮半島諸国との関係を優位にすべく、その目的にふさわしい官爵を求めて中国の南朝との通交を活発に行った。中国史書に名の残るこの時期のヤマト王権の首長を倭の五王という。

倭の五王最後の倭王武に現時点で比定されているのは、大泊瀬幼武尊(おおはつせわかたけるのみこと)であり、後世雄略天皇(470年頃治世)と(おくりな)されている人物である。このころより、大王治天下大王と称するようになる。また朝鮮半島での勢力拡大を思うように行えなかったことから、それを目的にしていた中国の王朝への朝貢も行われなくなった。この時期の前方後円墳は、特に規模が巨大化しており強力な王権の存在を示している。

倭の五王の後、5世紀後半から6世紀前半にかけて、ヤマト王権では混乱が見られた。しかし北陸・近江根拠地の傍系王族から即位した継体天皇の登場と統治により、ヤマト王権の列島支配が強まり、これ以後は現天皇に繋がる体制が確立した。なお、継体天皇期には、北九州で磐井の乱などが起こっているが、ヤマト王権と北九州豪族磐井の関係については不明の点が多い。

またこの時代には、朝鮮半島諸国の国際関係への介入は大きく後退した。こうした内向な時期を経て、ヤマト王権による日本列島支配体制はさらに強化されていった。同時期にオホーツク海沿岸地域では、オホーツク文化が成立し、およそ13世紀まで続いた。

この時代(場合により次の飛鳥時代を含めて)を、大和時代と呼ぶことがあったが、現在は古墳時代とするのが一般的である。

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